「雑響」「雑響」「Dr.C」からの指令により、 「色」の採取に、外へ出た。 まずは、近場から、歩く。 幹線道路を鉄橋が、横切り、 私鉄の列車が、鉄輪の腹を見せて、 轟音とともに、頭の上を通り過ぎる。 何度か、狙ってみたものの、 「アブストラクト」には至らない。 アスファルト及び、通過する車群に向けても、 やっぱ、違うかも。 うちの近くには、ひなびた川が、 樹木に覆われ、けものみちのような遊歩道に沿って、 うしろめたそうな公園へ、続いている。 花、水面、草、水道管、橋の下に、眠る浮浪者、 びみょうに、違うかも。 うーん、と、ひとりごとをつぶやきながら、 あるきつつ、 (ひとりごとが、ビデオに録音されていた、こわい) やはり、いろ、ぴんく、といえば、 日本有数の「ぴんくたうん」かつ「いろがい」の 「かぶきちょう」だろうと、ひとり合点し、 てくてく歩いてくことにした。 ちょっと、歩くが、時間を気にしなければ、 歩けない距離ではないし、路上は、 素材に、満ちている、と思ったが、 徐々に夕暮れ、 ネオン看板が、目につきだす。 近くに寄るが、「光の色」と「モノの色」は、 質感が、違うことにきづく。 できれば、マテリアルな色が、欲しいかもと、 植え込みのピンクや白の花に近づいて映すも、 これまた、何かが違う。 そして、人が増えだし、どうやら、 ここは、新宿圏に入ったらしい。 具象から、抽象へ。 もともと、雑然な街並み、及び、人込みの画が、 自分は、好きだったのだなぁと、再発見しつつも、 だから、といって、その雑シーンは、基本的に何らかの、 線的なストーリーや、流れの中に、 配置しなければ、意味がでてこない、 わりかし、取り扱いの難しいものだったのかも、とも、感じ、 ここは、やはり、「アブストラクト」なんだから、 「あぶないひと」にならなきゃ、じゃないだろうかと反省し、 「あぶないひと」を想像してみた。 てゆーか、実害を及ぼさない、「あぶなさ」だ。 自分にとっての「あぶなさ」とは、 「ほどける」ことだ。 「視覚」から発する「認識作用」を徐々にほどいていく。 といっても、 実際に、私の感覚を、ほどくのではなく、 ビデオカメラの感覚をほどいていくのだ。 まずは、近視、遠視、乱視から、入っていく。 小便横丁を抜け、大ガードをくぐり、 きづくと、コマ劇広場に、到着した。 いつもと変わらない雑然とした風景だが、 4月末ともあり、早稲田、明治、慶応、東大など、 わこうどが、新歓コンパのため、酒を入れつつ、 群れをなしている。 わたしは、くすりはやらないが、くすり好きなダチたちを、 思い浮かべ、その心境に、思いを巡らしてみる。 ふわふわして、きもちええんやろなぁ。 カメラの瞳孔をひらいてみた。 すると、今まで、撮っていたときとは、一線を画する風景が、 起動し始めた。 現実感が、希薄になり、「アブストラクト」に、フライトし始める。 これだよ、これが、キマッテル状況だ。 さらに、「地下鉄A子ちゃん」の状況を、想像してみる。 リタリンと、アルコールのちゃんぽんで、 現実が、瓦解していくときの心理状況を。 はたから見ると、苦しそうでも、 きっと、本人は、「HEAVEN」に遭遇しているに違いない。 まわりの雑音は、そのままだが、 具象のフライトから、さらに、解体は進み、 「色」だけの世界が現れた。 「色」が、踊っている。 「色」が、生成しては、消滅していく。 「色」が、生々流転し、ノイズとの遠近感が、狂い始める。 「色」が、視覚の補注網から滑り落ち、皮膚の裏側に滑り込む。 「色」が、ふわふわしている。 「色」が、歯車に、ぬめりこみ、エンジンオイルのように作動する。 「色」が、周囲のノイズとの間に、新しい関係を結び始める。 「色」が、雑響している。 まるで、覚醒剤でも打ったような、「しゅーる」な身体感覚。 これが、「地下鉄A子ちゃん」の世界だったのか。 (おれも、一回だけ見たことあるけど) などということは、どうでもよく、 「色=現実=具象」の解体によって、 「色=非現実=抽象=空」が立ち現れ、 「色」のグラデーションに、身を置くことによって、 やっぱ、「色即是空」だよな、などと、 「アブストラクト」していたのでした。 |